1200年前の948年、仁明天皇が、6月16日に16の数にちなんだ神供を供えて当時流行っていた疫病が収まるよう祈誓し、元号を嘉祥に改めたというお話があります。
それが、室町時代には年中行事となって、江戸時代には町人のあいだでも広がり、嘉定喰(かじょうぐい)といって十六文で餅16個を買い食す風習がありました。そして、それが今では和菓子の日に繋がっているのですが、これをヒントにお花でやってみたいと思ったのが、今回の「嘉祥の花活け」でした。
16種類の16本の花を、16日に活けて頂く趣向です。急なお誘いにもかかわらず、たくさんの方に参加頂き、素敵な「嘉祥の花」を活けて頂きました。
供物を納める儀式は、宗教が始まる以前の太古から人々が行ってきた儀式です。
収穫した米や果物、パンや葡萄酒など人々の大切な物を供えてきました。
供えるって、なんだろう?
それは、人間と超自然的な存在との間に切ることの出来ない関わりがあることを感じていて、意思ある自然から恵みを受けることで、自分たちが存在する事を知っていたんですね。
恵みに感謝する事を伝える方法として、供物を用意してお供えの儀式を行う。
それは、人類が編み出した、自然とのコミニュケーションの方法なんだと私は思うのです。そして、供物の儀式の中に花が大昔から常に存在してきました。
花は食べられる訳でもないのに大切な食料と同じように扱われてきました。それは、花は人が編み出したコミニュケーションの象徴なのだと思います。
そこで、嘉祥の花活けとして、6月16日、16種類の16本の花を供える事で、コミニュケーションしてみようと思ったのです。
花を活けるって、心が静かで無ければなりません。いえ、自然と静かになってきます。それは、花は命あるものだから、私たちと花と、命あるもの同士の微かな緊張感によって心が静かになるのだと思います。色とかたちでだけのモノとして見るのでは無く、ひとつの命として捉える。16種16本はすべて違った命です。どんなに文明が進歩しても、自然への畏怖を忘れる事は出来ない事を。自然が作り出した、美しく心を奪う花の姿に感じます。
私たちは自然と何をコミニュケーションするのか?それは、願いと感謝だと自然に思えてくるのです。
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